定時で帰るぼく、『わたし、定時で帰ります。』を読む。

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 ぼくは小説をほとんど読まない。というか、そもそも本を読まない。
 週刊ファミ通と週刊アスキーは欠かさず読むし、星新一のショートショートをかいつまんだことはあるが、パッと思い出せるのはそれくらいだ。
 おそらく、長い文章を読む能力がないのだと思う。または、読むより書くほうが好き、というのもあるかもしれない。

 そんなぼくが、人生初、きちんと読み切った小説が『わたし、定時で帰ります』だ。
 

 ぼくは、「定時で帰る人」だ。
 新入社員当時から、ぼくは堂々と残業が嫌いだった。「残業なんか無能のやることだろ」と、さすがに言わないが、思っていた。
 先輩から「もう帰るの?」と遠回しな引き止めを受けても「はい。お先に失礼します」と気に留めなかったし、そういえば配属早々に「歓迎会・送別会・忘年会は大切だと思うので行きますけど、なんでもない飲み会は行きません」と公言してもいた。飲み会よりブログ書くほうが2億倍楽しいわと、さすがに言わないが、思っていた。
 なんて生意気な新人だろう。さして優秀でもないのに。

 でも、許されていた。まあ、あいつはそういうやつだから、と「変わり者枠」に早々に認定された結果、意外にも周囲から受け入れられ、常識を押し付けられることがなくなった。
 新人こそ率先して残業して仕事を覚えるべきとか、残業は努力の証だとか、先輩を差し置いて帰ってはいけないとか、飲みの誘いは絶対だとか、そういう「常識」の外にぼくはずっといた。いさせてもらえた。

 なんだ。カンタンじゃないか。
 やっぱり、残業しない働き方なんて、自分しだいで実現できるんだ。
 強い気持ちと最低限の能力があれば、仕事は時間内に終わるし、人間関係だってちゃんと築ける。
 なにが午前様だ。なにが飲みニケーションだ。アホか。

 ……と、思っていた。
 いや、事実、そうなのだ。そもそもが狂っているようなブラック企業はさておいて、そうじゃなければ、平穏は努力でつかみ取れるのだ。

 ただし、極めて限定的な「自分の平穏」だけだが。
 

 『わたし、定時で帰ります。』の主人公・東山唯衣は、ほぼ上記のぼくと同種の人間だ。読んでアゴがガタガタ震えるほど驚いた。
 仕事を妥協するわけではないが、それ以上に、自分の平穏のためには妥協しない会社員。
 たぶん結衣も、「残業なんか無能のやることだろ」と、さすがに言いはしないが、多少思っている。

 で、同作がすごいのはその先だ。
 『わた定』は、スーパーウーマンがあらゆる困難をはねのけて定時に上がり続ける痛快勤労コメディではない。そんなのを期待している人は読まないほうがいい。
 ぼくは、結衣と同種の人間であるぼくは、読んでいてこれはもはやホラーだと思った。ぬちゃっとした泥沼に手を引き込まれるようだった。

 「自分の平穏」を守り続ける日々には、いつか必ず限界が来る。
 それにはふたつのパターンがあって、ひとつは、未曾有の大規模案件や超繁忙期の到来によって、自身の業務量が極端に増えたとき。
 そしてもうひとつは、地位が上がって管理職となり、「自分の平穏」のために「組織の平穏」を背負わなければならなくなったときだ。
 ぼく自身、身をもって味わってきた。

 そして、『わた定』では、その2パターンの典型例が、おぞましいほどリアルに描かれている。
 登場人物たちは、誇張されたおもしろおかしい人間ではない。本当に、どこにでもいる、どの会社にでもひとりはいるような人たちばかりだ。ふつうの人が集まる、ふつうの会社だ。
 結衣はその中で自分の平穏を守り続けていたが、やがて上記の2パターンに襲われることになる。「変わり者枠」だから回避できていた「常識」と戦わなければいけなくなる。
 そして、思い知る。「常識」の重さとしんどさを。回避できていた自分の幸運を。回避できずそれと戦い続けてきた、あるいはそれに飲み込まれ続けてきた、ほかの社員の苦しさを。

 このあたりが、この作品は本当にすごい。
 全編を通じて、「定時で帰る」結衣は正義とも悪とも断言されないし、「定時で帰らない」ほかの社員も、正義でも悪でもないとして描かれる。ただ、「そういうもの」として存在する。
 だから正直、後味がよい作品ではない。「定時で帰るのが当たり前の世の中になってみんなハッピー!」みたいな痛快勤労コメディでは、やっぱりないのだ。
 

 でも、読んでほしい。
 定時で帰りたい人はもちろんだが、ぼくはかつてのぼくのような「残業なんか無能のやることだろ」と思っている人にこそ読んでほしい。

 ふとしたきっかけで、自分の平穏をおびやかされるかもしれない危険。自分の平穏を守るために、他者の平穏まで背負わざるを得なくなる重圧。
 ぼくたちのような平穏至上主義者が、経験を積み、先輩や上司となり、いわゆる昇給や出世をしていくにあたって必ずぶつかる壁が、ここに恐ろしいほど記されている。もはや予言書だ。

「わたし、定時で帰ります。」
 これほど、自分が言うのはカンタンで、みんなに言わせるのは難しい言葉を、ぼくはほかに知らない。

コメント

  1. 名無しのゲーマー より:

    作者本人にいいねされてて草

  2. 名無しのゲーマー より:

    ドラマは恋愛要素強めになってるけど本来労働ホラーですよね
    登場人物に心当たりがありすぎる

  3. 名無しのゲーマー より:

    「残業なんか無能のやることだろ」とは思ってないが、定時で帰ることが出来るのは幸せだと日々感謝してる

  4. 名無しのゲーマー より:

    こんだけあれこれやらされて、定時で帰れる奴ァ、端ッからウチの会社になんざ来ねえよな、と思う今日この頃。

  5. 名無しのゲーマー より:

    うちはむしろ上司がはよ帰れ!と言ってくる職場だけどそれでもなんとなく帰りづらさはあるかなー

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