『劇場版ポケットモンスター ココ』を2回観た。
あわよくばもう1回観ようと思っているが、とりあえず2回観た。
ポケモン映画は『ココ』を含めて現時点で23作あり、ぼくはそのうち15作を観たことがある。そのなかでは、『ココ』はいちばん好きな作品になった(2番目は『みんなの物語』)。
ただ、ネットで評判を調べてみると、「ああ、わかるけど、そこで止めちゃうともったいないのに!」と思う感想を目にすることがけっこうあった。
(ここから先は、ネタバレになります)
終盤、ココがジャングルヒール(と思われる『とうちゃんの技』)でとうちゃんザルードを治したことについて、
「なんの前触れもなく急に使えたのがご都合主義で萎えた」
「人間がポケモンの技を使えるのはおかしい」
「一生懸命やれば誰でも奇跡が起こせるみたいなのはチープすぎる」
というような声が、かなり多かったのだ。
もちろん、それを否定する気はさらさらない。
ぼくの基本思想は、「作品の解釈に決まりきった答えはなく、人それぞれであるべき」だ。だから、「都合よく奇跡が起きた」というのも、解釈の選択肢のひとつだと思う。
でも、「ほかにも選択肢があるよ」ということをぜひ知ってほしい。もうちょっと想像をふくらませたり広げたりするともっと楽しいかもしれないよ、と。幸い、作品内にそのヒントはたくさんある。劇中で明示されているものをいくつかつなぎ合わせるだけでも、いろんな可能性が出てくる。
「ココはなぜジャングルヒールを使えたのか」までいくには、いくつか考察のステップが必要だ。ぼくなりの解釈をすべて書き出してみた。
そもそも、「とうちゃんの技」はジャングルヒールなのか?
映画のなかではいちども「ジャングルヒール」という名前は出てこず、「あの技」「とうちゃんの技」などと呼ばれるだけだが、技の効果やエフェクト、さらに劇場配布特典のとうちゃんザルードが最初からジャングルヒールを覚えていることから、「とうちゃんの技=ジャングルヒール」はほぼ間違いない。
ただ、厳密には、「とうちゃんの技はジャングルヒールだが、ゲーム版のジャングルヒールとは設定が違う」と考えられる。
ゲーム版(ポケットモンスター ソード・シールド)におけるジャングルヒールは、「ジャングルと一体化して治癒を行う、ザルードだけが使える技」だ。対して映画では、「ジャングル(オコヤの森)と一体化して治癒を行う、とうちゃんザルードだけが使える技」として表面上は描かれる。ザルードなら誰でもどこでも使えるか、特定の個体が特定の場所でのみ使えるか、という点が異なる。
映画では、とうちゃんザルード自身が「特別なザルードにしか使えねえ技なんだ」と述べており、のちに長老も同じ認識を持っている描写がある。これだけだと「とうちゃんザルード以外にも『特別なザルード』はいる」という可能性が残るが、終盤にココがジャングルヒールらしき技を使ったとき、他のザルードたちが即座に「あいつ(とうちゃんザルード)の技だ」と反応していたことから、少なくとも現代のザルードたちのなかではとうちゃんザルードしか使えない技だ、ということがわかる。
ただ、昔はどうだったかわからない。とうちゃんザルードが「俺にしか使えねえ技なんだ」とは言わなかったことから推測すると、長老ザルードが「過去にはお前と同じ技が使えるザルードがいた」という話をしたのかもしれない。
とうちゃんザルードはなぜジャングルヒールを使えるのか?
これについては、とうちゃんザルードの「セレビィが未来から持ってきたタマゴから生まれている」という特殊な出自が関係していそうだが、細かい解釈はいろいろありそうだ。たとえば、
A.セレビィがとうちゃんザルードに特別な力を与えた
B.「未来のザルード」はみんなジャングルヒールを使える
C.とうちゃんザルードが自力で覚えた
などが考えられる。
いったんの個人的な解釈は、Bだ(もっとも推したいのはCなのだが、これは後述する)。
ジャングルヒールは「ジャングルと一体化する」技だから、ジャングル(オコヤの森)と心が通じ合っていることが使用条件のひとつだと考えられる。とうちゃんザルードは未来の平和なジャングルからやってきているから、もともとジャングルにその存在を認められていたのではなかろうか。
対して、現代のザルードたちは自分たちこそが「森」そのものであり、ジャングルの支配者であると思い込んでいる(思い上がっている)ので、ジャングルヒールの使用権を持たない。かつては使える個体がいたが、ザルード全体の傲慢さが増していくにつれ、いなくなったのだろう。
そう仮定すると、長老ザルードが「お前にしか使えない技」ではなく「特別なザルードにしか使えない技」と説明したのも理解できる。やはり、長老が知る過去にはジャングルヒールを使える個体がいたのだ。
とうちゃんザルードはなぜココのほうに向かったのか?
群れの仲間たちが棲み処に戻っていくなか、とうちゃんザルードだけがなにかを感じ取り、逆方向に走って人間の赤ちゃん(ココ。当時アル)を見つけた。
これは「単なる偶然」「ストーリー上の都合」ととらえることもできるが、とうちゃんザルードが「なにか」を感じ取ったとき周囲にピンク色の淡い光のような粒子が飛んでいた、というのがポイント。これは、エンディング間際でセレビィ(オコヤの森のセレビィ)が放っていた粒子と同じものだ。
個人的な解釈は、「ココ(当時アル)が川に流されたとき、セレビィがそれを助けて陸地に引き上げてあげた(または陸地には運よく勝手に乗ったが、心配でその様子を見守っていた)。そのときセレビィから放出された粒子をとうちゃんザルードが感じ取り、本能的な懐かしさを覚えてその方向に向かった」だ。
とうちゃんザルードはセレビィが持ってきたタマゴから生まれているから、セレビィの粒子に気づいたり反応したりするのは自然なことだし、逆に他のザルードたちが気づかないのも自然なことだ。
とうちゃんザルードはなぜココを拾ったのか?
助ける義理などないし、連れて帰ればザルードの掟を破ることになるにもかかわらず、とうちゃんザルードはココを拾い、群れを抜ける決断までを早々にした。
これについては劇中でとうちゃんザルード自身が「俺も親を知らない。似たものを感じたのかもしれねえ。ほうっておくことなんてできなかった」という旨の話をしている。ぼくはこれがすべてだと思う。誰かが誰かを助ける理由なんて、そういうものなのだ。
ただ、とうちゃんザルードは平和な未来のタマゴから生まれた存在ということもあり、「(種族にかかわらず)他者を思いやる気持ち」は生来の気質として強めに持ち合わせていたのかもしれない。生来のやさしさと、現代で育つなかで染みついた「ザルードこそが支配者であり、他の生物を尊重する必要などない」という教えがしばらく葛藤した結果、(ココの積極性のおかげもあって)前者が勝ち、拾ったのだろう。
長い葛藤があったのは劇中の描写からもうかがえる。立つのがやっとのココがとうちゃんザルードの背中に乗るまでには、そうとう時間がかかったはず。また、とうちゃんザルードも、軽い赤ん坊とは言え他人が自分に乗ってきたらふつうは気づくはず。いちどココを見捨てて去ったかに見えたとうちゃんザルードだが、たびたび立ち止まり深く考え込んでいたのだろうと想像できる。
なお、とうちゃんザルードは他のザルードたちと比べて思考回路がどうやら違うらしい、というのを感じ取れる描写もあり、見るからにツタが太く体格のよいリーダー格のザルードが「お前のことは信頼してた」ととうちゃんザルードを同格として認める発言をしている。終盤の共闘でも、やはりとうちゃんザルードを特に信頼している発言をする。単純な腕力ではリーダーザルードのほうが上のはずだから、知性や人格の面でとうちゃんザルードは高く評価されていたのだろうと推測できる。
「ジャングルと一体化する」とはなんなのか?
ザルードたちに伝わる『掟の歌』には、「われら森の血」という詞がある。そして終盤には、長老ザルードが「森とはザルードのことでなく、この地に住まうすべての命のことだったのか」と認識を改める場面がある。その後、ジャングルはザルードや他のポケモンや人間たちが尊重し合い、協力して平和への道のりを歩んでいき、やがてセレビィがふたたび現れるほどになる。
以上をふまえると「ジャングルと一体化する」とは、平たく言えば「種族の壁を越え他者を愛する」ことだと考えられる。オコヤの森に生きる者すべてがひとつの家族。たとえ種族が違ったとしても、思いやり、愛する心を持つこと。それこそが、「ジャングルと一体化する」ことなのだ。
種族の壁を越え他者を愛する、とオコヤの森(あるいはその中核である神木)に認めてもらえたとき、オコヤの森は力を貸してくれる。つまり、ジャングルヒールを使えるようになる、というのが、ぼくの解釈だ。
ココはなぜジャングルヒールを使えたのか?
ここまで来れば話は単純で、「種族の壁を越え他者を愛する」とオコヤの森に認めてもらえ、力を貸してもらえたからである。
ココはジャングルヒールを発動できるようになる直前、「自分はザルードであり、人間であり、とうちゃんの息子だ」という旨の叫びを発している。つまり、血縁がなくたって、種族が違ったって、とうちゃんザルードは俺の親だ、愛する家族だ、と心から叫んでいるのだ。これは「種族の壁を越え他者を愛する」というジャングルヒールの使用条件を完璧に満たす。
だから、ココはジャングルヒールを使うことができた。映画でのジャングルヒールは「ザルードというポケモンがレベルアップで習得する技」ではなく「オコヤの森と一体化できる者(種族の壁を越え他者を愛せる者)が神木に起因する治癒の力を借りて行使する技」だから、誰が使えても不思議ではない。くさタイプと一定以上の知性を持つザルードであれば技との親和性が高い(覚えやすい、使いやすい)ということはあるかもしれないが、必ずしも「ザルードにしか使えない能力」ではない、というのがぼくの解釈だ。
とうちゃんザルードはなぜジャングルヒールを使えるのか?(再)
A.セレビィがとうちゃんザルードに力を与えた
B.「未来のザルード」はみんなジャングルヒールを使える
C.とうちゃんザルードが自力で覚えた
の3択でBと述べたが、じつは個人的にいちばん推したいのはCだ。
劇中で、とうちゃんザルードがいつからジャングルヒールを使えるのかは明言されていない。生まれつきとも言われていないし、○○をきっかけに、とも言われていない。想像の余地が大きい。
B説は要するに「生まれつき」なわけだが、ジャングルヒールは「種族の壁を越え他者を愛する者」が使える技であるということと、とうちゃんザルードとココは群れを抜けたあとも群れとの接触機会はたびたびあった、つまり長老と話す機会も何度かあったはず、ということから考えると、こんな形でC説が浮上してくる。
「とうちゃんザルードはココを拾い育てるうちに『種族の壁を越え他者を愛する』ようになり、ジャングルヒールの力が発現した。それをなにかの機会に長老に報告した際、『特別なザルードのみが使える技』だと教えられた」だ。そして、ワシボンを救う際のほかに、ココや他のポケモンを治療するなどでもジャングルヒールの使用機会はたびたびあり、それによって他のザルードたちも「あいつだけが使える不思議な技」としてジャングルヒールを認知していったのではないか。
けっきょく、セレビィはなにもしていない
本作は、極端な解釈をすると「セレビィがとうちゃんザルードやココに特別な力を与えただけのセレビィのご都合主義案件」にできるのだが、ぼくの解釈は逆方向に極端だ。
セレビィはけっきょく、未来から適当なザルードのタマゴを持ってきて、川に流された人間の子どもを助けてあげた(または陸地に上がるのを見守ってあげた)だけで、それ以外はなにもしていない。「自ら直接的に手を貸す、手を下す」ということをいっさいしていないのだ。
とうちゃんザルードがココに出会えたのは、たまたまセレビィの残り香を感じ取り、気に留めたから。ココを拾い育てたのは、とうちゃんザルード自身のやさしさ。ジャングルヒールを使えるようになったのは、ココを育てる過程で成長し種族を超えた愛を覚えたから。ココがジャングルヒールを使えたのは、とうちゃんとの衝突やサトシたちとの出会いを経て成長し、種族を超えた愛を覚えたから。
セレビィは彼らにきっかけをもたらしただけで、あとはすべて彼ら自身の力なのだ。
そういう意味では、本作を「愛と奇跡の物語」などとカンタンにくくるのは正確ではないとぼくは思う。「愛と成長の物語」のほうがいいんじゃないかな、と思う。
余談:「完璧じゃない」大人たち
心配のあまりサトシにあれこれと口を出しすぎて、「あのまま聞いてたら日が暮れちゃうよ」と電話を切られてしまうサトシのママ。
タイレーツがなぜ花火を止めようとしているのかわからず、怒ってしまう花火職人たち。
掟の歌を曲解し、我らザルードこそがジャングルの支配者だ、という方向性を推し進めてしまった長老ザルード。
劇中にはよく見ると、とうちゃんザルード以外にも、失敗したり過ちを犯したりする「完璧じゃない大人」がたくさん出てくる。
しかし、サトシのママはエンディング間際の電話では違った形でサトシへ信頼を伝えるし、花火職人たちはきちんとタイレーツに謝る。長老は「そもそも『森』とはザルードのことではなかった」と、自分の根底の思想が間違っていたことを認め、認識を改める。
このあたりからも、本作が「成長する子どもが大人を超えていく物語」ではなく「大人も子どもも関係なく、みんなが成長する物語」として描かれていることが感じ取れる。これは映画前々作の『みんなの物語』でも似たようなメッセージをぼくは感じた。
もちろん、これらはぼくの個人的な解釈に過ぎないし、観た人の数だけ解釈があっていいと思う。そこに正解も間違いも上も下もない。
でも、「こういう考え方もあるよね」とか「こんなふうに理解してみるのはどう?」とか、解釈の選択肢を広げてみることは、とてもいいことだと思う。ぜひ、「よくある親子愛モノ」「子ども向けのご都合主義」みたいな枠組みに当てはめて終わる前に、想像を広げてみてほしい。
こんなに名作なのに、コロナ禍で興行収入が例年より落ちることがなかば確定してしまっている『劇場版ポケットモンスター ココ』。
スタッフに少しでも感謝の気持ちが伝わるよう、応援し続けていきたい。

コメント
映画見てないけど読んだら見たくなってきた
初めまして。
突然のコメント失礼致します。
本日夕方に鑑賞後にtwitterで感想を検索していて拝見しました。
ジャングルヒールの使用条件「種族の壁を越え他者を愛する」は目から鱗。
私は流れで「セレビィが助けたのかな」と捉えていました。
解釈は仰る通り色々ですがココ自身の覚醒と捉えた方が作品テーマに合うので腑に落ちました。
もしかしたら、、、、
平和になった未来のオコヤにはザルード以外にもヒールが出来るポケモンが現れているかもしれませんね。
ゴロンダがフライゴンを癒してあげている絵を想像しました。
良く整理された素敵な解釈をありがとうございました。
今後も訪れさせて頂きます。
余談が一番素敵
去年〜今年の映画は可哀想よな
「鬼滅は売れたんだから売れないのは実力不足」って言われそうだし
仮面ライダーの映画も出足が良くないと聞く
おっとおふざけコメをしづらい空気
TVシリーズと連動しなくなった辺り(キミに決めた)からの作品好き
XYとかテレビ見てないと登場人物わけわかんないからなぁ
検索でたどり着いた感動した人が次に見るのがイチジク浣腸だと思うと胸が熱くなるな
良記事で心の清らかな読者を釣り、その後の記事でねじ曲がった性癖を植え付ける。新しいカルト宗教かな?
良いコメント貰って、次かその次あたりで照れ隠しに性癖全開の記事書きそう
結構色々感想見てたけど多いのは「全部セレビィの掌の上」的感想だった
それは描きたいテーマと多分違うだろって思ってたからこの感想は納得した
セレビィは結構お節介で、赤ん坊ココを父ちゃんザルードの背中に乗せるくらいはしてあげたのかも?と思うけど、それ以外はほぼ解釈同じです!
私も観終わった時、あのジャングルヒールはザルードというより神木の力で、資格があるなら誰でも借りられるのだと理解しました。
人間の中ではカレンは使える資質があるかも?(ゼッドは論外ですね…)
みんなの物語好きだったなあ
素敵なお話をありがとうございます。
参考になりました。
凄くいい内容でした
この映画の考察の中で一番好きかもしれません
凄い納得した
良く見る「セレビィの都合」的感想に「?」ってなってたからしっくり来たよ
ブックマークしました
配信で映画見て感動して考察を探していたら辿り着きました
パン祭り攻略の人がこんな良い考察記事も書かれていたとは…
僕もココが一番好きです。
森と仲間達との助け合いを真に理解していた彼らにだからこそ、神木は力を貸してくれたのでしょうね。
掟の歌を正しく語り継いできた頃のザルードたちは、皆あの力が使えたのかも知れません。
セレビィに関しては、
ゼッドが森をめちゃくちゃにする未来を知っていたセレビィは、父ちゃんザルードを現代に送り込み、アルと引き合わせた。
くらいしか思いつきません。
これは妄想ですが、父ちゃんザルードは未来でも本当の親は居なかったんじゃないでしょうか。
掟を理解せず、森を暴虐に支配していたザルードたちは、そのまま数を減らし、滅びた。
もしかすると父ちゃんザルードはその最後の1匹だったり。
本当の親がいない彼だからこそ、自分を拾ってくれた群れの温かさや、森や他のポケモンとの接し方などに気付くことが出来たんじゃないでしょうか。
セレビィについては妄想が多いですが、自分はこう解釈しています。
個人的にこの映画は、最初の作品であるミュウツーの逆襲へのアンサーソングなのだと思います。