ぼくは親が共働きだったので、おじいちゃんおばあちゃんっ子だった。
土曜日、小学校が午前で終わったら急いで家に帰って、おばあちゃんが作ってくれた、ちりめんじゃことグリーンピースがたっぷり入ったチャーハンを食べるのが好きだった。
田舎にはたいてい「有線放送」というものがある。広島の山奥とてそれは例外ではない。
朝・昼・夕の決まった時間になると、有線放送電話という機械からそれが流れ始めて、今日の天気とか、今週の行事とか、青果市場の取引価格とか、○○町の○○さんが亡くなったとか、地元のいろいろなニュースを伝えてくれるのだ。
おじいちゃんもおばあちゃんも毎日それを欠かさず聞いていたし、やたらと音がデカいので、ぼくもとりあえず聞かざるを得なかった。グリーンピースをパクパクつまみながら、有線放送とそれを受けてのおじいちゃんおばあちゃんの会話をいつも聞いていた。
『……○○町のタナカサチヨさんが亡くなりました。74歳でした』
「タナカいうたら、あそこの鉄工所のとこの田中さんかのう」
「そうじゃろう。旦那さんが原爆症で、はよう亡くなって」
「原爆症じゃったんはその隣じゃろう。あそこは福山の空襲で死んだんじゃろう」
『ばれいしょ1kg 268円から278円、ピーマン1袋 180円……』
「うちはばれいしょ出さんのんか。今年はようけあるじゃろうが」
「まだ量っとらんのんじゃが。あとで量るけえ、カブで持っていってちょうだい」
「そういやあ、ばれいしょ言やあ、裏の小川さんのとこのはまた大きいんができとったのう」
「あそこは土がええんじゃろうなあ。戦争のときから大きいの分けてくれとっちゃったで」
おお、戦争の話だ。
ぼくも小学校の社会や道徳で習っている、戦争の話だ。
でも、おじいちゃんおばあちゃんが話しているのは、いつも、教科書とはぜんぜん違う話だった。テストには出そうもない話だった。
何年にどこどこで戦闘がありましたとか、ナントカ条約が結ばれましたとか、何万人の死者が出ましたとかじゃなくて、知り合いの○○さんが空襲で死んだとか、あのとき誰々からもらった野菜がおいしかったとか、あの晩の雑炊が恐ろしいほどマズかったとか、そんな話ばかりだった。
しかも、それがなんでもない流れで出てくる。知り合いが死んだ話と野菜がおいしかった話が同列で出てくる。
そのうえ、直後には「醤油とってくれ」とか「おお、もうすぐ『のど自慢』が始まる時間じゃのう」とか、あっという間にどうでもいい話題に戻っている。
どうしてこんなに、教科書の戦争の話と、おじいちゃんおばあちゃんの戦争の話は違うのだろう?
どうしておじいちゃんおばあちゃんは、戦時中という異常な期間のことを、日常の延長のように話せるのだろう?
戦争って、なんなのだろう?
最近、映画『この世界の片隅に』を観て、その答えがちょっとわかった気がした。
ぼくたちは授業で、「1939年から1945年までが第二次世界大戦ですよ。日本はこの日からこの日までが戦争だったんですよ」と学んだ。そこにはなにか、明確な境目があるかのように教わっていた。
でも、それは国や軍としての境目であって、たぶん、多くの人々の暮らしはそうじゃなかったのだ。
人々にあったのは、あくまで「日常」。
日常がグラデーションのように、少しずつおかしな方向に変化していっただけで、明確に「この日からこの日までが戦争でした」なんて言えるものはなかったのだ。
『この世界の片隅に』の主人公「すず」も、うちのおじいちゃんおばあちゃんも、だんだんと黒ずんでいくグレーに気づかなかったり、気づいたり、気づいていないフリをしたり、気づいていないフリに限界が来たりしながら、それでも日常を日常らしく生きていくほかなかったのだ。
だから、うちのおじいちゃんおばあちゃんは、戦時中のことを「特別なこと」として語ることをしないのだと思う。死の話と野菜の話が同列でできてしまうのだと思う。
だって、それが日常だったのだから。「それが日常になってしまうのが戦争」だったのだから。
『この世界の片隅に』で描かれていたのは、まさに日常だった。明確な境界線なく、徐々に変わっていくグラデーションの日常だった。
そして、そのなかで「生きる」、あるいは「生きようとする」ということだった。せめて、自分の心までは黒く濁っていくことのないように。
白と黒の境界線をしっかり引いた、教科書の戦争。
グラデーションのような、「すず」や、うちのおじいちゃんおばあちゃんの戦争。
どちらが正しいのか、という話ではない。どちらも正しいのだろうし、そもそも、正しい正しくないの次元で語るべきではないのかもしれない。
ただ言えるのは、それが戦争なのだ、ということ。
キレイに区切ることができるのも戦争だし、死の話と野菜の話を同じ食卓でできてしまうのも戦争なのだということ。
うちのおばあちゃんは長生きで、今年で92歳になる。大正14年生まれだ。
調べたら、『この世界の片隅に』のすずも大正14年生まれらしい。なんと同い年。
うちは呉市や広島市ではないが広島県内なので、風習や方言も近い。
ぼくの祖母も、すずだったのかもしれない。
そしてきっと、あの時代には、年齢や境遇は多少違えど、すずがたくさんいたのだろうと思う。
コメント
片渕監督のリツイートから飛んできました。
本物のすずさんも今そんな話を周作さんとしながら生活しているのかもしれませんね。
自分の亡くなったじいちゃんも大正14年生まれで戦時中の話をよくしていたっけ。
まったく悲壮感なく話していたじいちゃんは、「あの頃はそういう時代だったから」と必ず最後に言ってました。
じいちゃんにとっても戦争は非日常ではなく、少しずつ変わっていった日常の中の出来事として捉えていたらしいです。その方が戦争の記憶を忘れずにいられるから、と。
はぇ〜。面白そうな映画っすね…土日に見てみよっと
自分も子供の頃は祖母から戦時中の生活について耳タコになる程聞いてたし今でも地元に帰省した時に挨拶しに行くと変わらず聞かされるけど自分の生活とは別次元すぎてあんま実感が湧かないんだよなー
映像で見れば何かわかったりするのかな
素晴らしい記事だ…
身近な人が雑談のように語っていると本当のことなんだなとより実感できますね。