華やかな出版・編集業を陰で支える、「校閲」の仕事にスポットを当てたドラマだ。
最近のドラマ業界では、職業モノをやる場合、監修や指導をしっかり付けて、リアリティを追求するのがトレンドだ。
そのため、視聴者のホメ言葉としては、「リアリティがある」「あるあるをちゃんとわかってるw」といった感じのものが多くなりやすい。
しかし、『校閲ガール』はその真逆をガンガン突き進んでいる。
率直に言って、『校閲ガール』にはリアリティのカケラもない。
ぼくは仕事柄、校閲の人と関わることが多いが、そうでない人も、このドラマがリアリティとは無縁であることは少し視聴してすぐにわかったはずだ。
まず、世間的に地味な日陰者扱いを受ける校閲部が本当に地下にあって、照明もなんだかつねに暗い。大前提の時点で、『校閲ガール』はめちゃめちゃわかりやすいウソをついている。
そして、そこにポジティブの権化みたいな河野悦子がひょんなことから配属される。ファッション誌編集志望の悦子は毎日モデル顔負けのハデなオシャレをしてきて、口が悪く騒がしくて、校閲中に疑問が生じれば「事実確認」と称してすぐ外出し、原稿を家に持ち帰ることも多く、そもそも名前が河野悦子、略して「コーエツ」で……と、とにかくメチャクチャである。
こんな人は現実の校閲部どころか、社会全体を見渡してもほぼいないだろう。
で、悦子は毎話、つねに猪突猛進でさまざまな騒動を巻き起こす。
自分の信じることや人のためなら、迷わず考えず即行動。苦労することも、ルールを無視することも、人を巻き込むこともいとわない。ときには周囲に大きな迷惑もかけてしまう。
たとえば、事実確認に熱を入れるあまり作家のプライベートに立ち入ってしまったり、会社にとって宝であり、自身にとっても憧れだったはずの有名スタイリストすらも「らしくない」と思えば真正面から批判してしまったり……
でも、そのまっすぐさに周囲はやがて心打たれ、あるいは観念して悦子に協力し、そのおかげで不可能と思われたことが奇跡的に実現し、なんだかんだすべてがうまくいって、都合よくみんなハッピーになって終わるのだ。
最近の第6話を例に取っても、子ども向けの新雑誌から看板作家が急に抜け、困っていたところにちょうど子ども向け小説を書いている作家志望が現れ、それがとんでもない良作で、でも朝6時までに校閲を終えて印刷所に回さないとすべてがパーで、でも全員の力を合わせて5時59分に校閲が終わって……と、ご都合主義のデパートのような展開だった。
誤解を恐れず言えば、『校閲ガール』は毎回そんな話ばっかりだ。はっきり言って、都合がよすぎる。
フィクションじゃないと絶対にありえないことだらけだ。
フィクションじゃないと絶対にありえないことだらけだ。
でも、それこそが、『校閲ガール』がおもしろい理由だと思う。
中途半端になるくらいなら、いっそリアリティはハナから無視。
「これはフィクションですよ!だから、最高に都合がよくて気持ちいいエンターテイメントをお届けしますよ!」という姿勢を、ハッキリわかりやすく前面に押し出してくる。
「これはフィクションですよ!だから、最高に都合がよくて気持ちいいエンターテイメントをお届けしますよ!」という姿勢を、ハッキリわかりやすく前面に押し出してくる。
だから、逆に安心して観られる。どんな展開が来ても許せてしまうし、笑えてしまう。そして、都合よくみんなハッピーに終わる登場人物よろしく、気づけばこっちも毎回ハッピーな気分でドラマを観終えてしまうのだ。
リアリティを徹底的に追求した職業ドラマは、これまでいくらでもあった。
でも、逆にリアリティをここまで徹底的に「無視」した職業ドラマは、『校閲ガール』が初めてだと思う。
そしてきっと、その斬新さと気持ちよさこそが、ぼくたち視聴者を惹きつけてやまないのだ。
世の中にいいウソと悪いウソがあるとしたら、『校閲ガール』がついているのは、間違いなくいいウソだ。
文・木村彩人(石原さとみ大好き協会)
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